戦時中、筆者の母親が住んでいた東京都は1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空爆を受けたそうです。米国の爆撃機B29による絨毯爆撃で、今明かされる当時の写真からは、現状悲惨極まりないウクライナの情景をも上回る惨劇でありました。
筆者の母親は東京下町の浅草生まれんの生粋の江戸っ子で、昭和3年の生まれなので既に物心ついており当時の記憶は鮮明に覚えており、よく焼夷弾の雨をかいくぐって逃げ回り、生き延びたとの話はよく聞かされました。
戦時中も酷かったのですが、終戦後5年ぐらいは別の意味で惨憺たる状態であり、浅草、上野、墨田の辺りは失業者があふれ、大人こども問わず町中浮浪者だらけ、日々生きて行くのもままならない状況であったようです。
幸い、母親の父親、筆者にとっては祖父が福島のヤミ米のルートを持っていたらしく、食べることは何とかなっていたという話を聞きましたが、ある意味これも生きる知恵かと感心しました。
筆者の父親はというと、大正11年生まれですのでバリバリの兵隊として第一線の戦地へと駆り出され、主に当時の満州国(中国)からソビエト(ロシア)近辺の戦地で参戦しておりました。幸い戦死は免れましたが、最後は捕虜となりシベリアに送られたそうですが、それでもあのロシアから無事帰還したのですからこれも奇跡に近いと思います。
父は戦争の話はあまりしたがりませんでしたが、深酒をすると何人殺した、だとか戦争は人格を無くす、などと呟いておりましたが、捕虜時代の話は一切語りませんでした。言葉に出来ない辛さがあるのではと思いましたが…。
相場とは関係のない話で申しわけありませんが、戦後77年に平和ボケの筆者が先祖について少々触れさせていただきました。
弊社へのお問い合わせは、お気軽に03-3868-2801までどうぞ。